TAKAKUゼミナールのブログをお読みの皆様、こんにちは。

表の稲垣直剛(いながき なおたか)です。


以前にもお伝えしましたが、⇒ 
http://takakuzemi.blog.jp/archives/6984478.html 
今日から中3生を持つご家庭向けの「公立高校・入試説明会」を始めました。

志望校への想いや勉強への取り組み方を話しているうちに、色々な話題に広がっていきます。

休校期間が長かったため、クラスメートはおろか担任の先生のことさえまだまだわからないそうです。

そんな状況なので、少し上の志望校を狙う子にとって、学校の先生にははなかなか言い出しにくいのかもしれません。

〇〇高校に行きたいんですが、どう思いますか?

保護者の方からそんな質問が出ました。


現在の内申点や過去の合格者のデータをもとにお話しすることはできますが(しましたが)、これから半年間、どれだけ合格に向けて努力できるかはその子次第。

逆に言えば、第一回学調も終わっていないのに「自分は(この子は)これくらいだろう」と可能性を推し量るのはまだまだ早いと言えます。私が知る中で最も努力した子の一人は、中3の一学期から二学期で内申点を12アップさせました。テストの点数だけではなく、「ズバ抜けた努力」はきちんと評価されるという良い例です。


学校の先生について話していた時に、気が付いたことが一つ。

「〇〇先生はいい先生だよね」
「✕✕先生はイマイチかなぁ」

まぁ先生方もそういう評価をされて大変だよなぁ、と思っていると

「〇〇先生の授業は丁寧でわかりやすい
「✕✕先生はプリント中心でわかりにくい

と続きます。


あれ?自分が学生だった頃とちょっと違うなぁ。と感じました。


私たちが先生のいい悪いを語るときの言葉と言ったら

偉そう」「怖い」「つまらない
親身になってくれる」「優しい」「面白い

そんな評価基準だったように思います。


でも、私が接した子たちは先生の「教える技術」や「伝える熱意」みたいなものをしっかり肌で感じ取って、それを評価基準にしています。

先生が生徒を正当に評価しようと客観的な視座を持つよう努力しているのと同じように、生徒も先生を「教師」という職業の熟練具合で判断している。

大人だなぁ、と感じました。


この話し合い自体は爽やかな印象で終わったのですが、当塾が大切にしている「学ぶとはどういうことか」を考えるとき、この「大人な見方」に大きな落とし穴があるような気がしてなりません。

今日と明日に分けて、そのことを書こうと思います。


まず、誰かから「学ぶ」こと(≒師弟関係を結ぶこと)は、基本的に恋と同じです。

どういうことでしょうか。

例えば、あなたの友達がどう見てもどう考えても「ダメ」な人とお付き合いしていたとします。でも、その時恋する人が経験している陶酔や高揚感や幸福は(仮に近々大いなる幻滅が待っていたとしても)本物です。リアルタイムに限れば「真実の愛」であり「圧倒的現実」だと言えます。

逆に、成績とか運動能力とか顔の造形とか服のセンスなど、外見的・定量的に考査できるものは望む条件通りなのに、どうもピンとこない(ドキドキしない)という場合があります。

その違いはどこにあるのでしょう。

ここが肝心なところです。


ある人にドキドキして、カーっとのぼせてしまうときというのはたいてい、「自分だけが知っている」その人を発見した時です。


普段は粗暴に見える男の子があるとき小さい子に優しくしていたとか、
いつも元気はつらつな様子の女の子が深い憂いを帯びた表情を一瞬見せたとか。

「この人にはこんな一面があるんだ」と思い、それを知っているのは自分だけだという幻想の中に深く入り込んでいくとき。まさにそれが恋に落ちていくときでしょう。

みんなが知っている「良いところ」をわたしも知っている。それだけでは恋は始まりません。(「あの人いい人だよね、で終わり。」)

その人が持つ素晴らしい特質を「私だけが知っている」。この大いなる幻想こそが「私が私である」ことの存在証明の獲得につながるのです。

要するに恋というのは、「みんなは色々言うけど、私にはこの人が世界最高に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないわけです。でも、その「誤解(錯覚でもいいですが)」の自由さと審美的基準の多様性によって、どんな人にでも大抵一人は配偶者がいきわたり、我々人類の歴史は今日まで続いているわけです。

多様性って重要ですね。


先生も同じです。「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。

ある日突然先生が現れて、「私が君にとっての良い先生だよ。今日からは私に付いて学びなさい。」「わーい。これで成績がぐんぐん伸びるぞ。」なんてことはありません。

そんなチープでシンプルな出会いを期待してもダメです。

それは白馬の王子様を待って、窓辺でボーっとしている少女と同じくらい無駄なことです。

先生はあなたが探し出すのです。


「自分にとっての(自分だけの)」先生を求めて長く苦しい旅をした人。足を棒にして、目を皿のようにして、出会いを探し続けた人だけが「師」と呼べるような人間と出会うチャンスを得るのです。


ただし、もし見つかった(出会えた)としても、先ほど書いたようにそれは一種の「誤解(錯覚)」です。恋愛における「妄想」と同じです。だって、誰にとっても完璧な先生なんていませんからね。

そもそも、恋する人間の目に映る「愛する人」がどんなものであるか、周囲にいる人は決して知ることはできません。それは「愛する」という深い関係の中で造形された一種の「作品」だからです。私たちが自分自身の恋愛関係の中で経験している喜びや楽しみや悲しみや絶望は、周りにいる人間には決して同一のリアリティをもっては経験されない劇中劇です。
だからこそ、誰しもが「(自分だけの)世界最高の恋人」にいつか出会えるのではないかという願いをひそかに胸にしまって、毎日暮らしていけるのです。


あの先生最高!あの人に出会えたから私は変われたの!」と思うのは自由ですが、それは「一種ののろけ」であり、先生に対するこうした誤解の多様性ゆえに、私たちはひとりひとりが固有の成熟のプロセスをたどることができます。

要するに、恋愛が誤解に基づくように、師弟関係も本質的には誤解に基づくものです。ただし、それゆえに人を支える希望となり、成長させる糧となるという点で人生に必要不可欠な要素だと言えるでしょう。


成熟のプロセスというキーワードが出てきたところで、ここからは「学びのプロセス」です。(前置きが長くてすみません…)


さて、「学ぶ」とはどういうことでしょうか。

「誰かが持っている知識や技術を、何らかの対価と引き換えに付与されること。」

本当に?


では、同じ先生に教わっても、敬意を抱く人と抱けない人がいるのはどうしてですか?

その先生が持っている知識や技術が世界トップレベルであっても、こういうことは必ず起きます。その差はどこにあるのでしょう。


ここで最初に考えた恋愛の例えを思い出してください。

私たちは「好きになった人」が他の人と比べて定量的に良質か劣等かという比較をした後で恋に落ちるわけではありませんでしたね。

つまり、客観的な査定考慮が最重要なのではない(不要だ、とも言いませんが)という事実を忘れてはなりません。

むしろ、「この先生についていけば“何か”わかるに違いない」という積極的で断定的な「誤解」が、“普通の人”を自分にとっての(自分だけの)特別な“師”として選択させるのです。

それが、同じ人に学んでも違う結果をもたらすという差を生み出している、と言えます。


でも、先生のことになると、多くの人はこの「客観的な査定考慮」を最優先に判断し始めます。

なぜなら、現代のほとんどの(まさに世界中の)人は「学ぶ」ということを、先生が持つ有用な知識や技術を受け取るために、生徒がしかるべき対価(ほとんどの場合はお金。ある場合には時間とか労力)を払うことで成立する「取引」のようなものだと考えているからです。

仮に「学び」がそういうプロセスだとすれば、確かに先生の「資質・中身」は重要になります。

温かいコーヒーが飲みたくて自販機に120円入れたのに、キンキンに冷えた炭酸飲料が出てきたら困るからです。

出てくるものと払うものが釣り合っているか考えるのは当然です。


でも、「学ぶ」というのは本質的にそういう事じゃないと思うんです。


明日の記事で、この問題を着地させます。


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