TAKAKUゼミナールのブログをお読みの皆様、こんにちは。

表の稲垣直剛(いながき なおたか)
です。


昨日に引き続き、 ⇒ 
http://takakuzemi.blog.jp/archives/7028355.html
「学びと師」について書きたいと思います。(長い記事にお付き合いいただき、本当にありがとうございます)


昨日の復習①「良い先生(師)との出会い」とは恋と同じで、主観的かつ積極的な「誤解」だということ。

昨日の復習②:①にとって「客観的査定」は重要ではないにも関わらず、なぜ先生(師)を選ぶ際には「客観的査定」を重要視するのか?という疑問


今日も一つ、例えから始めましょう。



私は教習所に通ってバイクの免許を取りました。保護者の皆さんも自動車免許を取りに通ったことでしょう。

自動車学校の教官を、生徒たちは「先生」と呼びます。

でも、教官を本当の意味で「先生」だと言えるでしょうか。

教官は運転技術や交通法規という間違いなく有用な知識・技術を教えてくれます。でも、この教官に対して敬意を抱いて憧れたり、「恩師」と呼んだり、10年後に同窓会を開いて昔話に花を咲かせるといったことはまずありません。(だからバイきんぐさんがコントにすると超絶面白いのです)

むしろ、卒業した瞬間に顔も名前も忘れ去ることでしょう。

なぜ?

社会生活を営む上で非常に重要な知識と技術を受け取ったにも関わらず、それを与えてくれた人を尊敬しないのはおかしいことですね。


では、別のケース。

バイクの免許を取ってから一年後、私は鈴鹿サーキットに行ってプロのライダーから一日講習を受けました。

たった一日の講習なのに、講師の名前も、講習内容も、行き帰りの道中にあったことまで鮮明に覚えていますし、機会あるごとに「あの時習ったことが役に立った」という感謝の気持ちを呼び覚ましたものです。


この違いはどこから来るのでしょう?


教習所の教官とプロライダーの知名度の違いですか?

おそらくそんなことではありません。


この敬意の違いは「学んだこと」の違いに由来しているのです。


では、何が違ったのでしょう?

教官よりプロライダーの方が技術が格段に上だった?

いいえ、違います。免許を取って一年の初心者に二人の運転技術の巧拙を判断する力などあるはずがありません。(実際、教習所のバイク教官はとても運転が上手いものです)


プロライダーからはウィリーやスピンターンという特殊な走りを教わったから?

これも違います。サーキットでないと出せないスピードを時折出したものの、一日の大半は基本の走りと身体運用の反復練習です。


では、答えは何か。


それは、


教官からは「定量的な技術」を学び

プロライダーからは「技術は定量的なものではない」ということを学んだ


という違いです。


具体的にご説明しましょう。

教習所の教官から学ぶのは、卒業検定に合格する水準の運転技術です。免許証をもらえる最低限度の技術をクリアーすることがそこに通う目的だからです。

とても分かりやすい目標ですし、実際その目標を達成するためのカリキュラムで知識や技術を獲得できたわけです。つまり教官は「君は他の人と同程度の水準に達した」という評価をもって、「これでおしまい」という“到達点を指示した”のです。

その後、例え技術的に可能だとしても、教官が生徒にウィリーやスピンターンを教えることはありませんね。


一方、プロライダーが教えたのは「運転技術に”これでいい”という限界はない」ということと「運転技術は創造的な芸術になりうる」ということです。

技術には無限の可能性があり、完璧な技術に達したと言える人はいない。
おそらくどの世界でもプロと呼ばれる人々はそう教えてくれるはずです。


つまり、プロライダーは「おしまいということはない」として“到達点を消去した”のです。


二人の先生の違うところはまさにここです。ここだけと言ってもいい。

先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。

そういうことが起こるのです。


ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生「学ぶことに終わりはない」と教える先生の間には千里の径庭があります。


私は、「学ぶとはどういうことか」を考える時に一番大切なのはこのことだと思います。


「学ぶ」というのは、単に人から有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。

むしろ、「完璧な技術に到達しえない過程」がひとりひとり違うからこそ、努力を惜しまなかった人は独創的な技術を創造するんだという可能性を示されることだと思います。


プロの講習には、すぐに理由のわからない解説や、一見不自然と思える身体運用が多分に含まれていました。その後何年も費やして、ようやくいくらか分かったのかもしれないと思えるほど深い知見が含まれていました。

当然、初心者には少し高いレベルのことをすぐわかるように解説して、講習という「学び」をその日で完結させることもできたはずです。生徒はそれで満足して帰ることでしょう。

しかし、「何を言っているのかわかりにくい」にも関わらず、というより「何を言っているのかわからない」からこそ、そのプロから本質的なことを学ぶことができた。


これが「学び」の効用であり、生徒と師の本質的な関係なのだと思います。


「教師」という言葉は個人的に好きではない(学校の先生の呼称だと思っている)ので私は一介の塾講師ですが、プロとして、「(勉強であれスポーツであれ芸術であれ)技術に完成はない」ということと「完璧に達しない過程においてこそ創造性は発揮される」という真実を子どもたちに伝えてあげたいと考えています。


この核心的事実に気づくと、昨日の記事に繋がることがご理解いただけるかと思います。要約するなら

「良い先生との出会い」≒「学ぶこと」は恋と同じで、「恋愛に終わりはない」そして「恋愛において失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。それゆえ、師弟関係も主観的な「誤解」という人類学的知見を含んだ形で作用する。

②生徒に到達点を示し、カリキュラムの達成をもって評価とする。これは師のすることではない。「客観的査定」を何よりも重んじるビジネスマンである。そして、ビジネスマンを自分の子どものメンター(助言者)として積極的に選択したい保護者は少数であると信じたい。むしろ、その都度到達点を消去し、無限の可能性と内包された創造性を引き出したい。

私はそう思います。


昨日の記事の最初に出てきた生徒さんの、「先生」に対する査定方法は、私が同じ年頃だった時に比べたら遥かに正当でした。

でも、その査定が定量的・客観的に正当であればある程、“師”と呼んで尊敬できる人に出会う可能性は滅失していくんじゃないか、と心配になった。という話でした。


文章にするには自分の中で寝かせ足りなかったことが反省されるような着地点になってしまいました

そこそこ上手く書けたところだけ編集して更新してしまいたいところですが、備忘録として残しておき、皆さんの率直な感想をいただきたいと思います
長文にお付き合いいただきありがとうございました。


ちなみに今回の記事に関連して、現代の中学生の学んでいることが、子どもにとっていかに大きな可能性へつながるものであるかについて、池上彰氏と佐藤優氏の対談記事があったのでぜひお読みください。保護者の皆さんもお子さんの中学校の教科書を読み直したくなるかもしれません。
⇒ http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/fujinkoron/life/fujinkoron-2283


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